研究・開発
 
東京タワー建設 −創業者・松尾三郎の挑戦− 


突然の目覚め

テレビ局の開局の準備に追われていたこともあって、松尾は、テレビ塔の企画案のことは忘れかけていた。そんなある日、鹿内氏から急な呼びだしがかかった。
「前に君からテレビ塔の企画案をあずかったが、君の案と同じような建設計画案が東京都の建設局に出されたらしい」
鹿内氏の言葉は、松尾を十分に驚かせた。世の中には同じことを考えている人がいるものだ。感嘆の思いとともに猛烈なファイトがわいてきた。このまま手をこまねいて見ていることはない。鹿内氏と相談し、松尾の案も一日おくれですぐに東京都にもちこまれた。 あい前後して似たようなというよりほとんど同じテレビ塔建設計画の申請を受けた東京都は困惑してしまった。審査の結果、二者が共同で建設するようにという断を下した。この決定を受けて、もうひとりの当事者である前田久吉氏と協議を行った結果、両者で新会社を設立して建設することに落ちついた。建設場所は、前田案の港区芝公園とし、この時点でこのテレビ塔は「東京タワー」と名づけられた。
「東京タワー」の突然の目覚めが、松尾の人生に大きな転機をよびこんだ。
昭和32年5月、東京タワーの建設と運営を目的として日本電波塔株式会社が設立された。松尾は、ニッポン放送を離れ、新会社の取締役技術部長の椅子に座った。建設の最高責任者であった。
テレビ局の新設プロジェクトに未練がなかったといえば嘘になるが、自分の起案した計画を自分の手で建設できることが松尾を発奮させた。なによりも現場の第一線で指揮をとれることがうれしい。その思いに技術者魂を重ねてみることもできる。
松尾の気持ちはいつになく晴々としていた。松尾の新しいチャレンジの日々がはじまった。



予想以上の難工事

建設工事は、想像以上の難工事であった。東京タワー何よりも地盤の悪さが工事を難しくした。クレーンもそれまでの方式のものが使えない。四方に巨大なコンクリートのアンカーを埋めこみ、太いワイヤーでクレーンを宙づりにしてせり上げていく新しい技術を開発して鉄塔を組みあげた。
このほかにもいくつもの新しい技術が開発された。最上部に取りつけられたハイテンションスチールのアンテナもそのひとつである。これまでにない高さの鉄塔だけにすべてにより軽い素材が求められた。アンテナの素材として選ばれたのがハイテンションスチールであった。
この素材は、名古屋にある大同製鋼でしか造っていなかったが、テレビ塔のアンテナのような大きなものを造る炉がない。松尾は、なんども大同製鋼に出かけて試作をくりかえようやく完成させた。最終的には三菱重工の横浜工場の炉が使われた。
本体の鉄塔の製作にも苦心をした。船を建造する場合と同じように、全高333メートルの巨大な鉄塔の設計図は原寸で書かなければならない。しかも船と異なり、斜めに建ちあがっていく形なので技術者も初めての経験である。中にはノイローゼになり途中でリタイアする者もあった。
七〇人からの鳶職の手配や管理も松尾の仕事であった。ある時は、飯場に寝泊まりして喧嘩の仲裁から酒のめんどうまでみた。すべてが松尾には初めて体験する社会であった。
───昭和33年12月23日、東京タワーの完工式が盛大にとり行われた。二層の展望台をもったダイナミックな姿は、東京の新しいシンボルとなり、観光名所として世界に知れわたった。
昭和三十年代、日本は太平洋戦争の敗戦の荒廃から立ち直り、ふたたび世界に向かって羽ばたきだしていた。そして昭和三十一年七月、経済企画庁は、経済白書『日本経済の成長と近代化』を発表し、技術革新による経済の発展を強調し、戦後経済は復興したと宣言した。
「もはや戦後ではない」という言葉が流行語となり、神武景気と呼ばれた好況の中で、家庭電化の時代を迎えていた。東京タワーは、こうした日本の発展を象徴する大きなモニュメントの一つであった。
東京タワーの建設は、関連するさまざまな技術を有機的に組織し、かつ効率的に展開してはじめて可能となる大プロジェクトであった。この大プロジェクトをまとめあげたことによって、松尾は、技術の組織的な展開について多くのことを学んだ。
このことが、その後の松尾の実業家としての独自の道を拓いていくことになった。