研究・開発
東京タワー建設 -創業者・松尾三郎の挑戦-
役所生活からの訣別
昭和29年、松尾は16年間におよんだ電信電話公社での生活にピリオドをうった。当時、松尾は、日本電信電話公社(電電公社・現在のNTT)電気通信技術研究所の無線課長として第一線の指揮をとっていた。ところがこの年、終戦直後からとり組んできた全国のマイクロウェーブ回線網が完成したことを契機に実業界に転身した。
松尾の転身に強い関心をもっていた一人が、当時、ニッポン放送の専務をしていた鹿内信隆氏(元サンケイグループ議長・故人)であった。
「われわれは新しいテレビ局の開設を考えている。ニッポン放送にきてテレビ局の設計を手伝っていただきたい」 ニッポン放送の設立と前後して松尾は、鹿内氏に請われるままに放送界に入り、実業界での助走を開始した。
フジテレビの開局にとり組む
ニッポン放送での松尾のポジションは、技術局次長であった。鹿内氏との約束どおり主として新しく計画中のテレビ局の設計に関する仕事を任された。後のフジテレビジョン開局のための準備である。鹿内氏の目は、日本の外に向いていた。海外のテレビ局からノウハウを学び、独自の路線を確立しようというのである。入社2年目、松尾は鹿内氏とともに海外に飛んだ。
海外視察の成果は、昭和32年11月のフジテレビジョンの設立(同34年3月開局)にさまざまな形で反映された。
東京タワーへの急転身
昭和32年5月、フジテレビジョンの開局を待たずに松尾は、急遽、新設の日本電波塔株式会社に移った。「東京タワー」の建設が急に陽の目をみることになり、技術側面を任されることになったのである。思いもよらない急な事態の変化であったが、これはいってみれば松尾自身がしかけた当然の結果でもあった。
話は、ニッポン放送に入ってテレビ局の仕事をはじめたころにさかのぼる。
開局の作業に関わりながら、無線の専門家である松尾が興味をひかれたものがもうひとつあった。放送電波を発信する鉄塔である。当時、わが国では、テレビ各局がそれぞれ自前の鉄塔を建て、電波を送っていた。しかし、高さが170メートルと低いため、サービスエリアも狭かった。テレビ放送の将来を考えたとき、サービスエリアを広げるためにはあちこちにたくさんの鉄塔を建てなければならない。これでは不経済なだけでなく、きわめて効率が悪い。いま個々に建てている鉄塔をひとつにして高い鉄塔にし、共同利用することはできないだろうか。松尾の計算では、いまの2倍の高さの鉄塔にすれば、サービスエリアは5倍以上に広がるはずである。
この着想を未消化のまましまいこんでいたある日、名古屋のテレビ塔の展望台に立つ機会があった。名古屋のテレビ塔は、地上100メートルの展望台だったが、そのとき、松尾の脳裏にひとつのひらめきが走った。
「展望台を付設した大型の鉄塔なら、観光資源としても活用できるのではないか。」
心のなかでくすぶっていたテレビ用の鉄塔の着想が、現実的なイメージとしてあざやかに浮かびあがってきた。松尾は、このひらめきに勇気をえて、すぐに大型テレビ塔建設の企画案の作成にとりかかった。
高さは330メートル。将来のテレビ放送の発展を考えると、この高さがあればテレビ電波の発信塔として十分な能力をもつことができる。建設する場所は神宮外苑の絵画館前か明治記念館正面がいい。東京の中心地で観光立地としてもすぐれている。また地盤もしっかりしている。試算してみると建設費30億円として 7年間で償却できる計算になる。このプランは、さっそく鹿内氏のもとに提出された。しかし、久しい間、鹿内氏の机の引き出しのなかで眠ることになった。時期尚早、というのがその理由であった。
突然の目覚め
テレビ局の開局の準備に追われていたこともあって、松尾は、テレビ塔の企画案のことは忘れかけていた。そんなある日、鹿内氏から急な呼びだしがかかった。「前に君からテレビ塔の企画案をあずかったが、君の案と同じような建設計画案が東京都の建設局に出されたらしい」
鹿内氏の言葉は、松尾を十分に驚かせた。世の中には同じことを考えている人がいるものだ。感嘆の思いとともに猛烈なファイトがわいてきた。このまま手をこまねいて見ていることはない。鹿内氏と相談し、松尾の案も一日おくれですぐに東京都にもちこまれた。あい前後して似たようなというよりほとんど同じテレビ塔建設計画の申請を受けた東京都は困惑してしまった。審査の結果、二者が共同で建設するようにという断を下した。この決定を受けて、もうひとりの当事者である前田久吉氏(後の日本電波塔株式会社代表取締役会長・故人)と協議を行った結果、両者で新会社を設立して建設することに落ちついた。建設場所は、前田案の港区芝公園とし、この時点でこのテレビ塔は「東京タワー」と名づけられた。
「東京タワー」の突然の目覚めが、松尾の人生に大きな転機をよびこんだ。
昭和32年5月、東京タワーの建設と運営を目的として日本電波塔株式会社が設立された。松尾は、ニッポン放送を離れ、新会社の取締役技術部長の椅子に座った。建設の技術的な責任者であった。
テレビ局の新設プロジェクトに未練がなかったといえば嘘になるが、自分の起案した計画を自分の手で建設できることが松尾を発奮させた。なによりも現場の第一線で指揮をとれることがうれしい。その思いに技術者魂を重ねてみることもできる。
松尾の気持ちはいつになく晴々としていた。松尾の新しいチャレンジの日々がはじまった。
予想以上の難工事
建設工事は、想像以上の難工事であった。何よりも地盤の悪さが工事を難しくした。クレーンもそれまでの方式のものが使えない。四方に巨大なコンクリートのアンカーを埋めこみ、太いワイヤーでクレーンを宙づりにしてせり上げていく新しい技術を開発して鉄塔を組みあげた。
このほかにもいくつもの新しい技術が開発された。最上部に取りつけられたハイテンションスチールのアンテナもそのひとつである。これまでにない高さの鉄塔だけにすべてにより軽い素材が求められた。アンテナの素材として選ばれたのがハイテンションスチールであった。
この素材は、名古屋にある大同製鋼でしか造っていなかったが、テレビ塔のアンテナのような大きなものを造る炉がない。松尾は、なんども大同製鋼に出かけて試作をくりかえようやく完成させた。最終的には三菱重工の横浜工場の炉が使われた。
本体の鉄塔の製作にも苦心をした。船を建造する場合と同じように、全高333メートルの巨大な鉄塔の設計図は原寸で書かなければならない。しかも船と異なり、斜めに建ちあがっていく形なので技術者も初めての経験である。中にはノイローゼになり途中でリタイアする者もあった。
70人からの鳶職の手配や管理も松尾の仕事であった。ある時は、飯場に寝泊まりして喧嘩の仲裁から酒のめんどうまでみた。すべてが松尾には初めて体験する社会であった。
───昭和33年12月23日、東京タワーの完工式が盛大にとり行われた。二層の展望台をもったダイナミックな姿は、東京の新しいシンボルとなり、観光名所として世界に知れわたった。昭和30年代、日本は太平洋戦争の敗戦の荒廃から立ち直り、ふたたび世界に向かって羽ばたきだしていた。そして昭和31年7月、経済企画庁は、経済白書『日本経済の成長と近代化』を発表し、技術革新による経済の発展を強調し、戦後経済は復興したと宣言した。
「もはや戦後ではない」という言葉が流行語となり、神武景気と呼ばれた好況の中で、家庭電化の時代を迎えていた。東京タワーは、こうした日本の発展を象徴する大きなモニュメントの一つであった。
東京タワーの建設は、関連するさまざまな技術を有機的に組織し、かつ効率的に展開してはじめて可能となる大プロジェクトであった。この大プロジェクトを経験したことによって、松尾は、技術の組織的な展開について多くのことを学んだ。
このことが、その後の松尾の実業家としての独自の道を拓いていくことになった。
写真資料提供:日本電波塔株式会社
